桜蛾〜サクラガ〜


 ある夜、道を歩いていると上から突然、白くて小さいものがひらひらと舞い降りてきた。一瞬、それが蛾だと思って、びくっとする。
 子供の頃から、私は蛾というものに対して、どういうわけか異様なまでに恐怖心を抱いている。その種全般に見られる、あのグロテスクな色模様。折り畳まずにべたりと木の幹や垣根や塀、家の壁などに羽を広げたまま静止している様。そして、その傍を通ろうものなら、今にも飛び立ち、鱗粉を撒き散らしながらこちらへと向かってくる姿を想像せずにはいられない、その恐ろしさ。それが、周囲が暗くてよく見えない夜間であればなおのこと。街灯の蛍光灯の白い光の中に突然羽をばたつかせながら飛び交うものが姿を表すという、その不気味さ。とにかく、私にとって“蛾”とは嫌悪と恐怖の対象だったのだ。
 そう、だからそんな異常な恐怖心が時にこんな早とちり、思い違いを招く。あれからすぐに上を見上げて気付いた。自分の目の前にそびえるように生えている一本の桜の木。少々なまぬるく感じる春の陽気の中、桜の大木はその枝に付いている仄かにピンク色のかかった白い花をいっぱいに開花させていた。
 そうか、なんだ……。
 つまり、舞い降りてきた桜の花びらを、私は蛾と勘違いしてしまったという訳だ。ちょうど、電柱に取り付けられた街灯の隣に生えている桜の木だ。くるくると回転させながら落下する花びらに光が白く反射して、余計それらしく見えてしまったのだろう。
 でも、ふいに違和感を覚える。頭上で咲き乱れている桜の花々が、どうも不自然だった。
 蠢いている――。
 風に揺られているからとか明らかにそういう風ではない。一つ一つの花が、まるで意思を持っているかのように、枝の上を動いているのだ。
 私はハッと気付いた。
 あれは桜の花じゃない。全て、蛾だ。無数の白い蛾の群れが木の上にとまっているのだ。
 慌てて足元の地面を見た。
 ああ、やっぱり……。
 さっき見たあれは、花びらなんかじゃなかった。
 弱って枝にしがみつけなくなった蛾、死にかけた蛾が、落下してきたのだ。そして、まるで桜の花びらのように、堆積しているのだ。
 良く見ると、成程、その羽は真っ白というわけでなく、仄かに赤みのかかった色だった。だからさっきは桜なんかに見間違えてしまったんだ。
 けれども何で? 今目の前にある、ごつごつとした木の幹は、どう見ても桜のそれだ。それなのに何故、桜が咲いていないのだろう? それに、どうして蛾がこんなにもたくさん、一箇所に集まっているというのだろう?
 そんな疑問が浮かんでこなかったわけじゃない。
 けれども、その時の私は恐怖ばかりが頭の中を駆け巡って、それどころではなかった。
 もし、あれらが一斉に舞い降りてくるなどしたら、間違いなく正気ではいられなくなる。
 おそるおそる、足を踏み出した。
 ぷつん、ぷつん、と何かを踏みつぶす、イヤな音と感覚が、足の裏から靴を通して伝わってきた。
 私はもうたまらなくなり、眼をつむると一目散にその場から逃げだした。
 どれくらい逃げたのだろう?
 幸い、あの蛾たちが襲ってくるということはなかったし、追いかけても来なかった。
 けれど、走り過ぎたせいか、足がガクガクと震えている。
 胸の奥も苦しくて、ひどく気持ちが悪い。
 そういえば、あの木の下――。
 あれだけ大群の蛾がいたということは、尋常でない量の鱗紛が空気中を舞っていたのでは?
 そう考えると、まるで自分の身体の中に大量の桜色した鱗紛が入り込んでしまったような恐ろしい感覚に襲われた。
 私はもう立っていられなくなり、がくんと地面に膝をつくと、その場で激しく嘔吐した。


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